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随筆部門  佳作

  私の中で生き続ける父

 昨年、父が逝った。平成二三年一一月二九日、火曜日、午前九時二一分。肝臓癌と五年間壮絶に闘った。遠くに嫁いでいる私は最期に立ち会えなかった。妹からのメールでそれを知った時、不思議と涙は出なかった。教師である私は、次の授業を考えていた。そしてその日の段取りと、恐らく一週間忌引きをいただく間の自習プリントを作り始めた。管理職にそれを告げたのは午後だった。その日を勤め上げ、帰宅して夫と二人で手早く葬儀の準備をし、車で実家へ向かった。五時間のドライブの間私は頭の中が空っぽだった。二七年前に嫁ぐ時、きっと親の死に目には会えないだろうと覚悟した。その通りになっただけだ。なんて親不幸なんだろう。二日前の日曜日に帰った時には、もう私のことがほとんど分かっていなかった。「お父さん、私のことが わかりますか」と下手な川柳を詠んだ。父との思い出はあまりない。でもかけがえのない父だった。

 父は昭和二年五月二一日生まれ、八四歳だった。小学校の校長を父、病気がちな母のもと、次男坊として生を受けた。しかし、最初の子供二人を幼くして亡くした夫婦にとって、父はまさしく長男であり、厳格すぎる父と、溺愛の母のもとで成長することになる。その後、もう一人男の子が生まれ、父には弟ができた。幼いころから運動に長け、とりわけ相撲が上手く、町内の相撲大会ではいつも優勝していたという。A市の家には賞品でもらった大きな柱が大黒柱として使われていた。弟のほうは賭け事に長け、メンコで仲間を負かし続け、常にポケットはメンコでパンパンに膨らんでいたという。それでも、当時の長男大事は凄かったようで、長男だけはステーキで後はすき焼きという風に大きな差別を受け二人は育ったらしい。父はのんびり屋でお金に疎い人となり、次男である私の叔父は教員になったものの、全てに要領がよく別居をしてさっさと家を購入してしまった。

 父の幼少時代は、反面とてもみじめでもあったという。B市の豪農の長男として生まれながら、家土地を捨てA市に出てきた私の祖父は苦労をして大学を出て、教員となり、多くの弟や妹にお金を貸しては返してもらえず、どんどんケチになっていった。それが妻の神経症をひどくしていったのだと思う。とにかく「ドケチ」と言えるほどのケチで、お風呂はみかんの皮を乾かして沸かしていた。そして、子供の運動靴が破れていても、なかなか買ってやらず、修学旅行ももったいないと、行かせなかった。その中で育った父は、お金に対して満足いくまで使いたいという人柄となり、叔父は要領よく貯めていく人柄と分かれていった。ちょうど戦前に大学進学となった父は、徴兵逃れを祖父が狙ったのか、武道に長けていたからなのかわからないが、C市にあった武道専門学校に進学する。まさしく封建制度を絵に描いたような学校であったらしい。先輩の言うことはたとえそれが「白」であっても「黒」と言われれば、その途端から「黒」になったという。街を歩いていて、市電の中に先輩の顔を見つけたら、慌てて次の停留所まで猛ダッシュをし、大きな声で、「こんにちは」と電車に向かって叫ばねばならなかった。映画館へ入ると暗くて見えないので、先輩がいるかもしれないと、真っ暗な中、「こんにちは」と叫んだという。食料のない中、下宿の屋根を剥がして燃料とし、ご飯を炊いた話も聞いた。あらゆる武道を学び、教科は国語を深く学んだらしい。終戦で、閉校となったが、先生には腹切をされた方さえおられたという。父は大学に夜通い、体育教師、国語教師、柔道整復師の免許を取った。A県の高校教員として長年勤めあげ、多くの高校生を全国大会に送った。講道館八段まで取った人だった。A県柔道連盟の会長まで務めた。母との出会いも武道専門学校の先輩が中学の教師をしており、とてもよい子がいると紹介されたという。母は、一男五女の末っ子で、戦争で父を亡くし、勉強はできたが経済的理由で大学をあきらめ、銀行に勤務していた。父は窓口にいる母を私の祖母と一緒に見に行ったという。お見合いをしてとんとん拍子に話が進み、あっという間に結婚してしまった。昭和三二年五月一日メーデーの日だった。その翌年長女である私が誕生し、その二年後次女である妹が誕生している。とにかく柔道部の指導で毎日帰りは遅く、土日祝日も家にいない。狭い家でケチな祖父と神経質な祖母との同居は、母にとっても私たち姉妹にとって非常に苦痛なものだった。その上、祖父母と父はよくぶつかり大声で怒鳴り合いになることが多かった。私は家が大嫌いで、父のことも嫌っていた。祖父母に関しては憎んでいた。父との思い出は、柔道部の生徒さん達がしょっちゅう家に来てはすき焼きパーティをするので、手伝いをさせられたことかもしれない。真面目に牛肉を買う母に、「どうせお兄ちゃんたち赤いうちに食べるから、豚肉混ぜたほうが安いで。」とアドバイスする生意気な小娘だった。妹は要領よく逃げてかわいがってもらってばかりいた。私は小遣いをもらっても貯金ばかりし、妹は全部使ってしまうような対照的な姉妹だった。D島の合宿に連れて行ってもらって、父の柔道着姿を見て、少し見直したのも覚えている。男の子がいないせいか、私には長男の役を求められることが多く、妹はお人形のように可愛がられて育った。私は早くから「なぜ人は生まれて生きて死んで行くのだろう」と哲学的なことを考えるようになっていた。そんな父が家庭訪問から帰って来て、「出してもらったお茶をいただいたら、先生がうちのお茶を飲んでくれた初めての先生です。」と涙を流して保護者の方が喜んで下さったという話をしてくれた。柔道家である父は茶道にも嗜みがあり、お抹茶をよくたてた。私にも早くからお茶を習わせた。そして、「食べ物は人を繋ぐ。出していただいた物は箸をつけなさい。」と教えた。先述の家庭訪問先は被差別部落と当時呼ばれていた所にあるお家だった。A市という土地柄、在日韓国人の生徒さんも多く、父は彼らのためにできる限りのことをしていた。工業高校に長く務め、建築学科の優秀な生徒さんに自分の家を建てるときはすべて任せた。家出をした部員を北海道まで自費で探しに行った。我が家の家計はいつも火の車だった。

 父が体育館勤務になった時、一つのことを始めた。障害を持ったお子さんが運動できる教室を作ったのだ。当時高校生だった私は、父の勧めでボランティアとして参加させていただいた。そこで一人の女の子に出会う。目のくりっとしたかわいい顔をしたその子は、何の語りかけにも応答しない。私が担当することになり、困り果てた。しかし、音楽が鳴り始めると、嬉しそうに踊りだしたのだ。感動した。それから少しずつ仲良くなり、二人で階段を昇ったり降りたりするようになった。障害を持つ方の教育や運動に目を向けさせてくれたのも父だった。私は大学時代に高校英語、中学英語、小学校、特別支援の教員免許状を取り、結局は英語を選んで大学院へ進んだ。大学院時代に縁あってアメリカE州へ一年留学することになる。学費はアルバイトなどで貯めていた。旅費だけ出して欲しいと父に頼むと快諾してくれた。母はそれでなくても、気が強くて、学歴が高い女が留学までしたら、嫁には行けないし、生きて帰ってくるかもわからないと陰で父に訴え、泣いたという。父は、「死んだら、それがその子の運命や。決めたことをやらせなさい。」と言ったらしい。決して、「女のくせに」と言わない父だった。男の子がなかったせいかもしれないが、人を見る目はいつも温かだった。私が国立大学へ入った時も、教え子たちから、「先生に似なくてよかったなあ。子供は母系に似る言うからなあ。」と言われていた。それをにこにこ嬉しそうに聞いていた。

 私が教員採用試験に合格し、A県で二年勤めた後、縁あってF県の男性と結婚することが決まり、もう一度採用試験を受けて公立高校の勤務が決まった時も黙って喜んでくれた。教会で挙げた式で、父は号泣に号泣を重ねた。見ている私が恥ずかしかった。父の愛情を初めて深く感じた。その後、私たちに男の子が生まれ、里帰り出産だったため毎日宝物を触るようにお風呂に入れる母を手伝っていたのが昨日のことのようだ。男の子が欲しかったのだろう。私たちには女の子も与えられ、妹は二男一女に恵まれ、両親は五人の孫ができた。どの子にも平等に接し本当にかわいがった。晩年、その功績が評価され旭日雙光章を叙勲した。母と二人の皇居での写真は宝物だ。

 しかし、身長があまり高くなかった父は寝技で勝負することが多く、坐骨神経を痛めていた。年齢を重ねるとともに痺れは足まで届き、歩行が困難になった。杖はプライドが許さなかった。そして癌を発病。頑固なまでに母の看病しか望まなかった。母も看病疲れのストレスからか乳癌を発病した。幸い早期で手術し予後も良好である。何度か再発した父はカテーテルでしのいだが、最後の一年間は家庭内ホスピスとなり、どんどん衰えていった。私は可能な限り実家へ帰るようにしていた。時間的にも経済的にも楽ではなかったが、父との最期を大切にしたかった。夫もよく協力してくれた。

 今日は平成二四年六月二日、日曜日である。私の中で父を書きたいと思って半年以上が過ぎた。その間、色々な出来事があった。人が一人亡くなるとは、様々な雑事と、苦々しい人間関係も起こりえるのだと思い知った。今朝五時に目が覚めて、一気にここまで書いた。夫が読んでくれた。「納骨に入れたらいいよ。」と言った。母にはメールで送ったら喜んでくれた。父は逝ったけれど、私の中で彼は今もこれからも生き生きと生き続けている。

 

川柳部門  佳作  二句

       (◎ 二句)

 

15世代(いちごせだい) 食い物にする 大人たち

 

   かわいいよ ピアス・アイプチ  

しなくても

 

思春期と 二八年付き合って  馬事東風

 

うっせえな  生徒に言われ  そっちこそ

 

思春期ね 反抗期ね 私は更年期

 

◎ 一列に 並べてピンタ はりたいよ